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津村重舎 (二代目) : ミニ英和和英辞書
津村重舎 (二代目)[つむら じゅうしゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important
: [しゃ, せき]
  1. (n,n-suf) inn 2. hut 3. house 4. mansion
: [に]
  1. (num) two 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [め, もく]
 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go)

津村重舎 (二代目) : ウィキペディア日本語版
津村重舎 (二代目)[つむら じゅうしゃ]
二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年)9月5日 - 1997年(平成9年)7月12日)は、日本の実業家東京都出身。株式会社津村順天堂(現 株式会社ツムラ)の二代目社長。漢方の復権に尽力した。幼名は基太郎。
== 来歴・人物 ==
1874年(明治7年)発布の「医制」以後、日本の医療は西洋医学中心となり漢方医学・東洋医学は凋落していたが、1957年(昭和32年)10月、二代目重舎は自社ビル(中将湯ビル)の一部を漢方診療所(現金匱会診療所)とし、大塚敬節を中心として小出弥生藤平健伊藤清夫相見三郎山田光胤大塚恭男ら著名な漢方医を迎え入れる〔津村重舎『漢方の花ひらく:古来の実績に科学の光を』1993年、善本社、p79、ISBN 4-7939-0308-8〕。翌年その診療所は医療法人としての認可を受け、二代目重舎が理事長となるが、日本で漢方診療施設が法人認可されるのは初であった。さらに、学会事務所とするのに適切な場所がなかった日本東洋医学会に事務所を提供したり、漢方の復興と普及を図る目的とした「漢方友の会」を設立(1959年(昭和34年)4月)し、定期的な講演と機関誌「活」を発行するなど、財界側から漢方医や漢方医学界を支援した〔山田光胤「日本漢方の伝承と系譜」『日本東洋医学雑誌』1995年、46巻、4号、p515〕。
その後、漢方製剤を保険薬として申請するための活動を行うが、厚生省は、科学的証明ができていない、成分がわからないなどの理由から直ちには許可しなかった。当時日本医師会長であった武見太郎は、漢方医ではないものの、明治政府が自国の伝統的医学を抑圧してきたことを好ましいこととは考えていなかったため、二代目重舎らの申請に対し「反対しない」という態度をとった。厚生省も大塚敬節を薬事審議会委員に委嘱するなどした結果、漢方製剤が薬価基準に収載される〔津村重舎『漢方の花ひらく:古来の実績に科学の光を』1993年、善本社、p90-91、p153、ISBN 4-7939-0308-8〕(1967年(昭和42年)に小太郎漢方製薬の4品目が薬価収載され、1976年(昭和51年)に津村順天堂の33処方を始め41処方・54品目が追加収載〔「医療用漢方エキス製剤の薬価収載と品目数の推移」日本漢方生薬製剤協会webページ 〕〔「歴史」小太郎漢方製薬webページ 〕〔「菊谷豊彦氏インタビュー(1)」『漢方新聞』1997年2月25日、4号、3面 〕)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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